ぜろから

あるちうるです。あるちうるじゃないかもです。

皆さんは自分の人生に意味がないと嫌ですか? 己が歩む道がひたすら虚無だと知ると死にたくなりますか? 虚無を嫌い、生きる理由を探し求めたりしますか? 自分探しの旅に出ますか? 運命を信じ、運命の人との出会いを待ち焦がれたりした経験は? 神を信じ、奇跡に縋った経験は? はたまた自分は神になにかを与えられた、もしくは与えられなかった、そんな風に考えたことはありますか? 貴方の歩む先にはレールが敷かれていますか? 自身の未来はすでに確定していると思いますか? 脱線は恐怖ですか? 順風満帆に死ぬまで一直線がお望みですか? 例えばどこかの誰かの従順なる奴隷でいたほうが楽だとお考えですか? それとも他者からの束縛を嫌い、払い除け、自由に漂流しているほうが性に合いますか? 思考停止してませんか? 考えすぎてませんか? 何事もバランスが大事ですか? ところでなにの均衡が保てないと不安になりますか? 世界? 社会? 心? 体? 貴方はなにから目を背けて生きていますか? 立ち向かっていますか? 逃げていますか? それともなにもしていませんか? なにもしていないつもりですか? だとして、それはどういう気分ですか? 満たされていますか? 虚無ですか? そう、やはり虚無ですかそうですか。ならば、己が歩む道がひたすら虚無だと知ると死にたくなりますか? 虚無を嫌い、生きる理由を探し求めたりしますか? そうそう、もしや自分の人生に意味がないと嫌なのではないですか?

僕は自分の人生に意味なんてないほうがいいと思います。
いや、正確には、意味なんて用意されていないほうがいいと思います。
では、意味が用意されているとはどのような状態かというと、例えば使命であるとか宿命であるとかがガチで存在する状態、つまるところ生まれながらにしてなんらかの義務を背負っているような状態、それはそれは非常に窮屈な束縛状態。そんなところだと僕なんかは思うんですよね。
じゃあ、使命やら宿命やらというのはいったい誰が、なにが用意するのかというと、神様とか人間とか……家柄によって人生が縛られているとかありますからね。生まれた時から自身の親が敷いたレールの上を歩かされるみたいなのが、まさにそれ。
とにかく用意されている人生の意味なんてものは、なんかそういう窮屈で面倒な代物でしかないと、そう僕は思っています。
もしかしたら人によってはもっと素晴らしいものが用意されているのかもしれませんが、なら実際に、自身の人生はもっと有意味であるはずだ、という人は、用意された意味が素晴らしいものだという期待を持って、それの追求をしているのでしょうか。多くの人はそうではないはずです。だって生きる意味を追求する人って大概、現状に満足していないんですよね。現状が無味乾燥だから意味を求める、というのが通例であると僕は思っています。
そして、まったく親が頼りにならなかっただとか、これまで出会ってきた人々もだめだっただとか、神は救ってくれなかった。神は居なかった! だとか、期待をしたらしたでどこかで裏切られたと感じる瞬間と出会うことになる。それもかなりの高確率で、です。
だから多くの人は自身の外側に期待なんてしていないんですよ。そう、問題への回答は自身の内側にある。

僕は生きる意味なんて自分で勝手に見出すものなんだと思います。
用意されている意味がどうしようもなく不満なら、そんなんどっかにうっちゃって、早々に自分の頭で考えて、自分で用意する。
そもそも僕らが生きている意味って、自然界に落ちているわけではありません。
というか、意味とかいう概念は人間の発明であり、自然界だの森羅万象だのに意味を与えているのは、他ならぬ貴方なのです。そう、知的生命体で人間な貴方なのです。だから、誰かが用意した『貴方の生きる意味』なんて、その誰かのなんらかの思惑であるとしかいいようがないので、大抵ろくなものじゃないです。
さて、聡明な読者諸君ならすでにお気付きかもしれませんが、『人生の意味』なんて言葉は人を操るのに大変都合がいいのですよね。
例えば、『おまえって、なんで生きてるの?』って誰かにいわれると、嫌な気持ちになりませんか? もしかしたら『自分に生きている意味はあるのだろうか……』とか思い悩んでしまうかもしれませんね。しかしなぜ嫌な気持ちになったり思い悩んだりするのでしょうか? それは恐らく人生の意味と存在の価値が同一であると無意識にでも刷り込まれているからではないでしょうか? 生きている理由とやらが、なにかとても素晴らしい大義名分でもない限り、あたかも己の存在に価値がないような錯覚に陥ったりするからではないでしょうか? でもそんなものは実のところ個人の妄想の範疇です。それを理解できない人達が他者がいう『人生の意味』という言葉に振り回されるわけです。
僕は、『生きる意味なんて自分で勝手に見出すものなんだと思います』といっておきながら、その実、その行為を推奨しているわけではありません。しかしやめたほうがいいともいいません。もちろんすすめもしないわけですが。とにかく、ただただ自分で勝手に見出すものであるという認識があるだけです。
だから追求したい人は追求すればいいし、面倒ならしなければいい。僕はその程度に思っているというお話でした。
ちなみに、僕は面倒なので考えない派の人です。

さて、前置きが長くなりましたが、また始まりましたよあるちうるのブログが。
いやね、僕はなにも別に宗教やらメンタリズムやら自己啓発セミナーやらを始めたいわけではなくてでしてね。
とにかく新しいブログタイトルのお話がしたいのですよ。
『あるちうるの、Reメシ食ってクソして寝る。』ということですが、これは僕が最初にブログを始めた頃に付けたブログタイトルからとりました。
当時はペンネームも違ったため、『再』を意味する『Re』を頭に持ってこれずにいるわけです。再来したのは『メシ食ってクソして寝る』の部分だけということですね。しかしこの最初に付けたタイトルの時期って、その頃の自分の年齢を考えるとかなり若いのですが、もう薄々にでも己の存在価値について悟っていた感がありますね。
つまるところ、『メシ食ってクソして寝る』という、ただそれだけなんですよ。僕が前置きでしたような『人生の意味』の話に対する、僕に関していえばの回答が。
卑屈ないいかたをすれば、僕はうんこ製造機です。

でも、自己顕示欲はあるんですよね。
そう、大した能力がなくても承認欲求はあるんですよ。
しかし、どう見られたいかという明確なビジョンがないです。そのせいで大した能力がなくても他者に存在だけは認めてもらおうとします。普通ならばいい感じに見られたくてそれ相応の努力をするものですが、僕はいい感じに見られるのとかが目的ではなくただただ存在を認めて欲しいのです。だからかなりタチが悪いかもしれません。
僕はガチで村八分を体験(ロールプレイ)したので……いや、RPってそれこそ妄想の範疇なのですが、僕は想像力だけは豊かだという自負があるのでね……そりゃ、もう怖かったですよ。
まあそんな顛末があり……僕は、人にまったく認知されないことの恐ろしさを知っています。だから僕はここに居るよと叫びたかった。

そんなこんなで、またブログを始めることになりました。
うんこ製造機のお通りだい! ってな感じでね。
あ、そうそう、こういうと僕のことうんこ製造機っていってくるヤツが現れるんですよ。それはもう確定的に、とても頭の痛いことに。
でも、自分でいうのと他者からいわれるのって違うじゃないですか。だって、他者がこの言葉を使う時って蔑称なわけでしょう? 悪口なわけでしょう? つまりは明確な攻撃なわけです。
ならば許すはずないじゃないですか。
しかし、そんなこともわからない輩が絶対に一定数存在すると踏んで予めいっておきますが、別に僕は人々からの罵詈雑言を容認しているわけではございません。
だってMじゃないですし、Mだったとして無闇やたらと罵詈雑言を浴びせるという行為が正しいとは思いません。もっとも、その人が求めたのならその限りではないのですが……。
人が嫌だと言っているのにその人の尊厳を損なうようなことをいうのは名誉毀損とかいう……要するに立派な犯罪です。やめましょう。
ただ、僕のやっていることってまったく本当に大したことないので、褒めろというのもかなり無理のある話ですし――いちおう当ブログにはコメント欄を設けますが――かなりコメントに困ることでしょう。だから無理にコメントしなくていいのですよ。
僕の要望としては、内部カウンターだけ回して頂ければ。それだけで人が訪れて僕の記事を読んだことがわかるので、僕は満足です。
とにかく、僕はここに居るよと叫びたかった。
ということでね――

ここから始めましょう、ゼロから(どんっっ!!!!)

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